<2016年10月号> 地方創生・行政改革大臣 山本幸三 氏 今回のテーマ:アベノミクスの仕掛人、ミャンマーを語る
山本幸三 氏[YAMAMOTO KOZO]
衆議院議員、地方創生・行政改革大臣
1948年、福岡県北九州市生まれ。1967年、東京大学理科一類入学(専門課程で経済学部に転部)。 1971年、大蔵省入省。
1993年、衆議院初当選。2006年、第1次安倍内閣で経済産業副大臣。自民党政務調査会副会長、総務会副会長を歴任。金融緩和によるデフレ脱却を主張し、アベノミクスの仕掛人とされる。今年8月、第3次安倍再改造内閣で地方創生・行政改革大臣に任命され初入閣。
永杉 豊
MYANMAR JAPON CO., LTD. CEO
MYANMAR JAPONおよび英語・緬語情報誌MYANMAR JAPON+plus発行人。日緬ビジネスに精通する経済ジャーナリストとして、ミャンマー政府の主要閣僚や来緬した日本の政府要人などと誌面で対談している。独自取材による多彩な情報を多視点で俯瞰、ミャンマーのビジネス支援や投資アドバイスも務める。ヤンゴン和僑会代表、一般社団法人日本ミャンマー友好協会副会長、公益社団法人日本ニュービジネス協議会連合会特別委員。
永杉 本日は「産業人材育成シンポジウム」開催中の合間にお時間を頂きましてありがとうございます。まず先生のご経歴などをお聞かせ願えればと思います。
山本 私は福岡県北九州市門司区で生まれました。小学生のころにテレビ放送が始まったのですが、当時は番組の数が少なくて、よく国会中継が放送されていました。池田勇人首相による日本の長期経済政策である所得倍増計画が国会で議論になっていたころで、政治家の仕事の面白さに大変興味を持ったのです。
永杉 具体的には、政治家のどのような仕事が面白いと感じられたのでしょうか。
山本 国を強力に引っ張っていく政治家のパワフルな姿、リーダーシップにあこがれました。将来大人になったら政治家になりたいと。ただその後、そう簡単にはいかないとわかるのですが。
私は戦後引揚者の父47歳、母43歳の時の子供で、7人兄弟の末っ子として生まれました。戦後、何もない時に姉たちに助けられて学校も行かせてもらいました。母からはよく「大きくなったら世のため人のためになる人物になりなさい」と言われました。それは公的な仕事につけということなのかと思い、当時の大蔵省に入りました。ただ政治家への夢は持ち続けていて、37歳ごろになって、今政治家にならなければ一生なれないだろうと決断し、大蔵省を飛び出しました。
永杉 日本の国家予算の策定や金融行政の中枢を司る重要な行政機関の大蔵省です。いきなり政治家へと転身したのでしょうか。
山本 そうです。いきなり選挙に出ました。しかしわけもわからない状態でしたので、1回目の選挙では落選しました。次の選挙では当選し、金も看板もない状態で、現在何とか7回目を迎えたというところです。
アベノミクスの仕掛人 日銀の金融政策批判
永杉 政治家になられてからのご活躍はいろいろあると思います。最大の功績はどのようなことでしょうか。
山本 私はアベノミクスの仕掛人と言われています。政治家になってから、私はデフレ問題が日本のガンだと考えていました。日本銀行の金融政策が間違っていると日銀批判をしてきましたが、当初はだれも理解してくれず、変人扱いされていました(笑)。
2011年、東日本大震災が起こった時、緊急アピールを急きょ作成し、全議員に配りました。デフレの上に、大震災で景気後退ショックが重なったわけですから、このままの政策を続けていったら日本はつぶれてしまうのではないかという危機感を抱いたわけです。日本を復興させなければならないという強い思いから、志を同じくする超党派の議員たちと議員連盟を作り、その会長に今の安倍首相になってもらいました。
当時、第1次安倍内閣が失敗した後で、その安倍氏に会長をお願いしたときに、私は「経済の安倍でないと国民に受け入れてもらえない」と話しました。その後、ご自身でも経済を勉強し、アベノミクスの構想を立てていったのです。そして、その1年後に総裁選、総選挙となり首相となりました。
デフレ脱却で日本を復興させる
日本とミャンマーの議員連盟同士で交流していきたい
<産業人材育成シンポジウムの会場で>
永杉 増税については、政治生命をかけて反対されたと聞いております。結局消費税増税は延期されました。そのような意見は、大蔵省時代に培った経験や感覚からくるものなのでしょうか。
山本 いやいや、大蔵省(現財務省)がマクロ経済政策をわかってないから、増税しなければならないなどという考えが出てきてしまったのです。私は金融政策について興味を持ち、自分なりに海外の文献などを読んで参考にしてきました。そこでわかったことは、海外の常識が日本の非常識となっているということでした。実は、私はむしろ海外の方で有名で、海外の通信社からは取材をよく受けます。
宏池会の古賀誠会長の右腕 ミャンマーと議員連盟を作り交流
永杉 ミャンマーとはどのようにつながりを持たれたのでしょうか。
山本 私が所属していた宏池会(岸田派)で、当時の古賀誠会長の右腕として行動を共にしてきました。古賀先生が日本遺族会の会長だったこともあり、ミャンマーの各地に分散していた旧日本兵の墓地を当時のミャンマーの首相と直談判して一つにまとめ、今の日本人墓地ができました。2006年、日本人墓地のお世話をしていただいている日本人会の皆様にお礼を伝えたいという古賀先生に付いて、ミャンマーを初めて訪れました。その後すぐにまた経済産業省副大臣として来緬しました。古賀先生が日本遺族会会長を辞められる時に、「この役目はお前に引き継ぐ」と言われ、その後可能な限り毎年、ミャンマーに来ています。今朝も日本人墓地にお参りに行ってきました。
永杉 今回、ヤンゴンで初めて「産業人材育成シンポジウム」が開催されました。主催した日本・ミャンマー友好議員連盟の幹事長としてミャンマーを訪問されています。この議員連盟はどのように設立されたのでしょうか。
山本 日本側は古賀先生が設立時の会長で、現在は逢沢一郎先生が会長を務めています。その後、日米の議員の関係を参考に、ミャンマー側でも議員連盟を作ってもらいお互いの交流を深めていきたいと働きかけてきたところ、今年の春にミャンマーの上院で議員連盟を作っていただけました。シンポジウムにも今回、8人の上院議員が参加してくれました。初めの会合では、ミャンマーの議員の皆さんは固い感じで、話も公式見解の域を出なかったのですが、夜の交流会では本音も出て、次の日には親しい友人となりました。
永杉 「産業人材育成シンポジウム」は、技術人材の育成や安全な自動車社会の構築について提言がなされていますが、どのような経緯で開催されたのでしょうか。
山本 議論をしていくと、ミャンマー側からは人材が育っていない、日本企業側からはスキルが足りないなどという声が多く聞かれました。その中でミャンマー側から、ぜひヤンゴンで産業人材に関わるシンポジウムを開いてほしいという要望があり実現しました。
このプロジェクトの名称は「JMVTI Aung Sanプロジェクト」ですが、この名前が結果として良かったのです。もともとは前政権のプロジェクトでしたので、新政権に移行して見直される可能性もあったのですが、アウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相の父親であるアウン・サン将軍の名前を頂いた計画でもあり、スムーズに存続が決まりました。
ミャンマー人は素晴らしい国民性 仏教の教えからくる許す心に感銘
永杉 ミャンマー人に対する印象はいかがでしょうか。
山本 ミャンマー人は、戦争中に日本からひどい仕打ちをされてもこれを許す心を持っています。これは仏教の教えからくるものなのでしょうけれど感銘しました。民度の高い素晴らしい国民性だと思います。
永杉 ミャンマーは今、日本の政治的、社会的変革があった明治維新に例えられます。今後、ミャンマーの発展はどのようになっていくとお考えですか。
山本 民度の高いその心を良い方向に持っていけるかどうかだと思います。急速に経済発展はしていくと思いますが、その中で経済格差が広がっていってしまうような社会にならないか心配しています。新政権が政策をしっかり実行できるかどうかにかかっていると思います。
永杉 本日はお忙しいところ、ありがとうございました。今後ますますのご活躍をお祈りしております。
(インタビューは今夏、ミャンマーを訪問したときに行われたものです)