政策レポート

北海道洞爺湖サミットを終えて(2008.7.14)

 

北海道洞爺湖サミットを終えて  
  2008.7.14 衆議院議員  山本幸三

1 34回目を迎えたサミット(主要国首脳会議)が、7月7日~9日まで北海道洞爺湖にて、福田総理の議長の下開催された。我が国で開催されたのは、最初が1979年に東京で、その後東京、京都、九州・沖縄と続き5回目である。今次サミットは、7日のアフリカ諸国等との会合に始まり、8日のG8だけの会合、9日の拡大会合(MEM)が行われ、9日午後の福田総理の議長国記者会見をもって閉幕した。   
 今回のサミットでは地球温暖化対策が最大のテーマとされてきただけに、首脳宣言で「2050年までに温暖化ガス排出量を半減する目標を世界各国で共有し、国連の交渉で採択するよう要請する。」とアメリカも含めた形で盛り込めたことで一応成功したといえよう。また、日本が従来から主張してきた「セクター別アプローチ」も宣言に「有用」と書き込めたことも成果である。  
 昨年の独ハイリゲンダム・サミットでの「真剣に検討」よりも前進させ、出来る限り「合意」に近づけるというのが当初からの狙いだった訳だから、上記の表現は上出来といえ、福田総理が記者会見で高揚していたというのは肯ける。  
 後でも述べるが、サミットというのはその場勝負という面があり、一定の成果を上げるのはそう簡単なことではない。今回のG8間の調整も難航を極めたようだ。アメリカが「長期目標の設定には、中国やインドなど新興国の参加が不可欠だ。」と主張し、「50年に半減」と明記することに最後まで抵抗したからだ。経済産業省の幹部によれば、「一時は交渉の決裂を覚悟した。」というほどだ。福田総理は、夜中に電話をかけまくって説得したというから、合意した後の喜びもひとしおだったのだろう。福田総理は内政では余り冴えないが、余程の外交好きとみられる。  
 ただこの「50年に半減」というのも、実は基準年がはっきりしておらず、日本は現状(2005年)としているのに対し、EUは「90年比」としており、これから来年の暮れデンマークのコペンハーゲンで開かれるCOP15に向けて厳しい交渉が行われることとなろう。そこでは、中国やインドなどの新興国がどこまで参加するのか、また、2020年といった中期目標をどうするかという大きな課題が突きつけられることになる。今回は、その前哨戦が行われたということである。

2 温暖化対策以外では、「世界のインフレ圧力を高める原油や食料の価格上昇に強い懸念を表明」したが、その犯人といわれる投機資金の規制の議論がアメリカの抵抗もあって出来なかった。また、ドル安問題にも踏み込めなかったが、従来からサミットで為替問題に深入りするのは危ないという暗黙の了解があるのだ。為替はプロの財務大臣の領域で、外務省が仕切るサミットでは詰めた議論はさせないというのが、通貨マフィア達の掟なのだ。従って、今回のサミットでも、日本の通貨マフィアのボスの財務官は参加していない。これが、通貨問題に関心のある首脳が議長の場合だとそうはいっておれないのだが、「福田総理にはそんな心配はない」と読まれてしまったのだろう。財務省の巧みな舞台回しを感じさせる。  
 北朝鮮の「拉致問題」が首脳宣言に初めて盛り込まれたが、首脳間の議論は「ジンバブエ一色」だったといわれており、まあ各国とも議長国日本の顔を立ててくれたということだろう。

3 サミットといえば私が事務方として参加した第一回東京サミットのことを思い出さずにはいられない。1979年のことだった。前年の6月、正式の辞令が出る前から大蔵省の国際金融局投資第一課の補佐から国際機構課補佐への移動が命じられ、独ボン・サミットの勉強をさせられた。そして翌年東京サミットとなるのだ。今でこそサミットの準備も慣れてきているが、何でも最初というのはとても緊張するものだ。私は、サミット担当補佐として、それから1年間財務官に同行して各国を飛び回り準備に明け暮れたのである。  
 ただこの年のサミットの議題は、従来の世界経済とか通貨問題というのとはかけ離れた石油高問題だった。この年初めからいわゆる「第二次オイルショック」が勃発したのである。1973年の「第一次オイルショック」で1バーレル3$から12$位に値上がりした石油が今度は35~40$に再度急上昇したのである。したがって従来は外務審議官と財務官が中心になって取り仕切っていた準備会合に通産審議官の天谷氏が加わることとなった。この3人とそれぞれお付がついて毎月1回づつ位の準備会合に出かけたのである。

4 通貨問題が中心議題から外れるとはいえ、一応首脳宣言の文案を作らないといけないので、知恵を絞ったものだ。当時為替レート理論で新しく「マネタリーアプローチ」というのが提唱され出していた。早速私は、提唱者のマッキノンという学者の論文を読んだり勉強を始めた。そのとき日銀にシカゴ大学で「マネタリーアプローチ」を勉強して帰ってきた人がいるというので、大蔵省に来てもらい話をしてもらった。それが、今回新日銀総裁となった白川方明氏である。彼は、東大で同じ小宮ゼミの一年後輩でもあり、よく知っていたこともあった。「マネタリーアプローチ」というのは簡単にいえば、「為替レートは各国の通貨の発行量の相対関係で決まる。」というものだ。今のドル・円・ユーロの関係をみると、実によく当てはまっているとも思えるのだ。つまり、一番金融を締めて通貨の発行量を減らしているユーロが高くて、円が真ん中、思い切った金融緩和策を採り通貨の発行量を増やしたドルが一番弱くなっているからだ。これは、「マネタリーアプローチ」が教える結果そのものともいえる。その年の首脳宣言には、この「マネタリーアプローチ」の考え方を元にした報告が盛り込まれているのだが、全く注目されることはなかった。余りに石油高問題が大き過ぎたからである。

5 日本にとって最大の懸念は石油の輸入量を制限されることであった。当時は、日本は有数の石油消費国であり、この輸入をストップさせられれば経済が立ち行かなくなり政権が吹っ飛ぶ恐れがあったのである。そこで日本としては、節約を約束するとしても数値ではっきり輸入量を決められるのだけは避けようと決意していた。ときの大平総理は、最初にやって来たアメリカのカーター大統領と会い、「数値目標は決めない。」ことで合意した。アメリカと決めたのだから大丈夫だろうと思っていたのだが、サミットはそんな甘いものではなかった。翌日フランスのジスカールデスタン大統領と独のシュミット首相が乗り込んで来た。彼等は、二人してカーターと会い、簡単にカーターを説得して「数値目標を決める。」ということに事態をひっくり返したのである。ジスカールデスタンといい、シュミットといい、その政治家としての強い意志と行動力の凄さに仰天したものだ。世界のリーダーたるもの、こうでなくてはならないと、日本の意図には反するが、感嘆したものだ。将来自分が政治家となったなら、こういう政治家にならなければと肝に銘じたものだ。  
 ジスカールデスタンとシュミットにひっくり返されて大平内閣は大騒ぎになった。内閣総辞職も覚悟しなければということになるからだ。英のサッチャーはこの時が初舞台で要領もよく分かってないらしく、ただキャンキャンうるさいだけで、中身の印象は全くない。その後「鉄の女」として活躍するとは思ってもいなかった。彼女もこのときのジスカールデスタンやシュミットの行動を見て「宰相たるものこうあるべし。」と感じ取ったのではないか。

6 ときの官房長官は郷土の先輩、田中六助氏であったが、深刻な表情で記者会見しておられたのを思い出す。通産省挙げて、そしてアメリカは石油問題も財務長官が担当していたので大蔵省も側面支援し、当初一日当り590万バーレルという数字だったのを、630~690万バーレルと幅を持たせた数字にまで譲歩してもらった。これには、最初日本と手を結んでいたアメリカも悪いと思ったのだろう、独仏との間に入って説得してくれた。このとき大平総理を安心させたのは、ときの経済企画庁の調査局長だった宮崎勇氏で、彼がマクロモデルを回して「これ位なら、日本経済は何とかやっていける。」とデーターで示してくれたのである。この時ほどマクロモデルが政権の判断に役立ったことはなかったのではないか。  
 大平政権としては大きな決断を下した訳だが、日本の凄いのはその後の省エネ努力である。企業も家庭も猛烈な省エネを重ね、今や日本の輸入量は470バーレルになっているとのこと、昔日の感がある。  
 また私はこのとき、仏のエネルギー源の7割が原子力であることを初めて知って驚いた。日本も真剣に原子力発電の普及に努めなければと、固く決意したのである。

7 サミットというのは、ことほど左様に首脳の資質が問われる試験勝負の場である。事務方がどんなに細かく準備していても、その通りにならないことも多く、ハプニングが起こり易いので大変なのである。  
 ただ今年のサミットは、アメリカのブッシュ大統領がレイムダック(任期満了直前で当事者能力がない)状態にあること、仏のサルコジ大統領も英のブラウン首相も新人で役者が不足していたことが盛り上がりに欠けた要因になったともいえる。逆にいえば、強引な首脳が少なかったので福田総理が得した面もあるともいえよう。来年はアメリカも新しい大統領が登場するし、独英とも場数を踏んでくるだろうから、今年みたいにはいくまい。伊のベルルスコーニのお手並み拝見ということだ。

(以上)