幸ちゃん物語 第4話 (青春時代編)
行橋時代と上京
~ロマンチストの父と気丈夫な母~
私は昭和二三年八月八日、北九州市門司区(旧門司市)の畑というところで、七人兄弟の末っ子として生まれた。父四七歳、母四三歳という両親とも高齢における子どもだった。
二三年といえば、敗戦によって壊滅的打撃を受けた日本が、焦土のなかから立ち直ろうとしていた時期である。父山本益一は、もともと行橋市行事の高森屋という商家の跡取りだった。
行橋は福岡県の北部東端に位置し、その昔は小倉城の城下町に農産物を運ぶための集散地であった。今でこそ浅くなっているが、長狭川には、荷物を輸送する船が頻繁に行き来していたそうである。
行事の山本といえば、少しは知られた名であったようだが、その先祖は大分県からやってきたという説もある一方、伝説的な延永長者につながるのだという有力な説もある。
行事の問屋商売は順調にいき、かなりの規模にまで発展したのだが、運悪く二度の火災に遭遇し家業は傾いてしまった。
しかも、父が中学生のときに祖父が亡くなってしまい、結局、後を継ぐには若すぎて没落したのである。
父は門司鉄道の職員となった。このとき、通勤途上の汽車のなかで母と出会い結婚した。当時としては珍しい恋愛結婚だった。
母は県の北東部の田川郡添田町の出身。田川女学校を出て、失敗はしたが師範学校の数学科を受験している。
昭和一〇年代は、戦勝続きで日本全体が高揚していた時代である。満州に進出して一旗あげようという者も相次いだ。
ロマンチストだった父も早速満州鉄道に移籍し、六人の子どもを引き連れて中国に渡った。しかし、終戦で事態は一変した。父はソ連軍に捕らえられシベリアに抑留されてしまったのである。
とり残された母は六人に子どもを連れ、必死の思いで日本に引き揚げてきた。着のみ着のまま食うや食わずの状態で、ようやく親族を頼って身を寄せたのが門司の畑という土地だった。
気丈な母は、黙々と頑張った。そして二年後に父がシベリアから帰国、ようやく家族全員の生活が戻ったのである。とはいっても父の働き口がすぐみつかるわけではない。生活の厳しさは変わらなかった。
私が生まれたのは、そのような状態のときだったのである。
このまま産んで、果たして育てていけるのだろうか。母は出産するかどうか、思い悩んだという。できることなら堕ろしたい。ところが、当時でも、堕胎するには三千円という大金が必要だ。貧乏世帯にそんなお金があろうはずがない。いたしかたなしに、私を産んだという。
人の生などというのは、不思議なもの。もし、三千円のお金が工面できたら、私はこの世に生を受けることはなかったのだ。ということは、貧しかったがために私は生き続けることが出来たのである。
その意味では、私はきわめて運の強い人間だといえるかもしれない。
母にすれば、私を産むときに躊躇したという悔いもあった。また、末っ子ということもあって、私にかぎりない愛情を注いでくれた。よく姉たちにも、
「この子は歳をとってできた子どもだから、私と一緒にいる時間が一番少ない。かわいそうだ」
と言っていたそうだ。そして、母の口グセは、「子どもは神の子」であった。
やがて、父も鉄道弘済会に職を得、兄妹たちも働き始めるようになり、生活も少しずつ安定してくるようになった。
私が三歳の頃、父の郷里、行橋に住居が移っている。貴船神社の裏側の田んぼを埋め立て、そこに分譲の県営住宅が建設され、抽選に当たって入居することができたためだ。その後は、この地が山本家の本拠となっている。