第7話:行橋時代と上京 ~東大生残酷物語~

 

幸ちゃん物語 第7話 (青春時代編)

行橋時代と上京

~東大生残酷物語~

 アメリカから戻ってきて、さあ後期試験の準備にとりかからなければと思っていたら、東大紛争が激しくなり勉強どころではなくなった。私はこのとき、進学について大きな悩みを抱えていた。

入学は理論物理学を目指して理Ⅰにしたが、どうも文科に向いているような気がしてきたのである。
高校時代にも文科にしようかと思ったことがあったが、朝永振一郎氏に刺激され理科を選んだ。しかし、ESSの先輩で外務省や大蔵省の方々の話を聞き、そちらの道に進みたいという気持ちが、どうしようもなく強くなってきたのである。

 そこで私は、もう一度入試を受け直すことにし、そのための準備を始めた。文Ⅰ(法学部進学組)なら社会が一科目増えるが、代わりに数学と理科の負担が減る。
これなら半年もあれば大丈夫だろうと、本気で取り組み始めたのである。
ところが、年が明けて安田講堂事件が起こり、この年の東大入試は中止になってしまった。私はここで途方にくれた。

 しかし、救いの道が一つだけあった。法学部と経済学部は、わずかの人員を他学科から受け入れると、進学要領にあったのである。
法学部は文Ⅰ以外から5名、経済学部は理科自体に枠があり、理科から三名となっていた。法学部の場合、文Ⅱ・文Ⅲの人達の方が科目数も少ないので、平均点が高い可能性が多くリスクが大きい。
何しろ失敗すれば退学せざるを得ない。
そこでリスクの少ない経済学部に賭けてみることにした。いざ発表のときは、さすがに緊張した。しかし無事進学が決まったときは、ほんとうにうれしかった。このとき既に、大蔵省を目指すことを心に決めていたのである。

 駒場から本郷に移り専門科目が始まると、皆これまでとは別人のように勉強に精を出すようになった。
国家公務員試験や司法試験を受けようとする人達はなおさらである。

私は法学部の科目をかなり取っていたのだが、この連中の勉強ぶりはすごかった。だいたい朝八時半から授業が開始されるが、七時半には教室の外で列をなして待っており、守衛が鍵を開けるやいなやどっと教室に走りこみ、前のほうから順々に席取り競争をしていく。自分の席を確保して、それからやっと朝食に出かけるのである。

 俗に、最前列は大蔵省、二列目は通産と日銀、三列目は自治と警察といった具合にランクづけされており、一〇列目ぐらいに透明のカーテンがあるというようなことが言われていた。
実際、大蔵省に入ってみると、ほぼ同じ列に座っていた連中だなと思い当たる節がある。彼らにとって公務員試験突破までは、家と教室と図書館以外は眼中にない。
映画や喫茶店などもってのほかである。あの大学受験を、もう一回り大きくしたスケールで繰り返すという感じであろうか。

 アメリカ映画で、「ペーパー・チェイス」というのがあった。ハーバード大学の法学部の学生が、試験とペーパーに追われ苦闘するさまを描いた映画だが、日本でも似たようなことが行われているのだ。これを、当然の試練とみるのか残酷物語とみるのか、評価のわかれるところであろうか。

 いずれにせよ、こうして各人がそれぞれ自分の選んだ道に進んでいくことになった。
このとき私はゼミ担当の小宮隆太郎教授から「大学に残る気はないかね」と誘われた。私はうれしかったが、自分は人の書いているものを理解することは出来るが”無”から何かの理論をつくり上げることには自信がない、として断った。
それでも先生は、
「学者は要領がいいだけでは駄目なんだよ。なぜなら結果はすぐにわかると、それ以上やろうとはしないから。しかし、新しい理論というのは分からないなりにやっていると、突然生まれてくるというようなものだよ」
 とまでおっしゃってくれた。

 しかし、私の大蔵省入省の決心は変わらなかった。私の決意は固く、先生もとうとう諦めてくれた。これで、ホロ苦くも甘酸っぱくもある、私の学生生活は終わったのである。いよいよ、社会人としての第一歩を踏み出すことになるのだ。そう考えると、何となく身が引き締まったものだった。