第8話:行橋時代と上京 ~恩師と叔父に教わったこと~

 

幸ちゃん物語 第8話 (青春時代編)

行橋時代と上京

~恩師と叔父に教わったこと~

 振り返ってみると、私はたくさんの方々のお世話を受けた。
 中学生時代、私が生徒会長選に落選し、自分は皆に嫌われる駄目な奴と自らを卑下し自暴自棄になりかけたとき、激励してくれたのが末永大典先生だった。

 私自身、直接先生に教わったことはないが、次兄の関係で先生はときどき家に来ることがあった。ある日、末永先生は落胆しきっている私に、
「幸三君、これは君にとって人生最大の試練だ。君がこのことで負けてしまえば人生の敗北者となるだろうし、これに打ち克つことができれば、人生の勝利者になりうるのだ。自己のいたらざるところを反省し精進を重ね、いずれは皆を見返してやるくらいの気持ちで頑張ってみたらどうかね」
 と力付けてくれた。

 私は、この言葉を聴いたとき、雷に打たれたような気持ちになった。
「よし、やってやるぞ」という意欲が、身体の底からムラムラと湧き上がってきたのだ。
ここで負けてなんになる。
私の人生はこれからなのだ。
私はなんとしても東大に進学してみせる。
末永戦士の励ましで、私はこう決心したのである。

 悩める子どもに、自ら目的を持つように誘導してやること、これが教育の本質であろう。私は今でも、末永先生こそは真の教育者だと思っている。

 そして、高校時代に出会ったのが、井上文雄先生である。

 井上先生の担当は英語だったが、教科はともかくそのスパルタ式生活指導にはビックリした。

 朝の出席を取るとき、一人でも返事の仕方が悪ければ全員廊下に出されて正座をさせれる。成績がよければ、掃除など少々はさぼってもよいなどといった態度は、決して許さなかった。
そのくせ、ほかの先生から自分のクラスの生徒が理不尽な扱いを受けようものなら徹底的にこれをかばった。
結果として、私たちのクラスは行儀もよく、進学の成績も非常によかった。まず何よりも、基本的生活態度からという恩師の姿勢が、私達生徒に信頼感を与え、皆が自主的に学生生活に取り組むようになったということであろう。

 この井上先生とは個人的にも付き合っていただき、大きな影響を受けている。

 私は高校一、二年の頃、毎夕ジョギングで身体を鍛えていたのだが、その途中に井上先生が住んでいた。先生は禅寺に庵を建て、一人住まい。ここで、勉強以外の人生や哲学などの話しを聞き、私も自分の考えを先生にぶつけて教えをこうたものだ。

 大学に入ってからも、夏休みで帰郷するときは必ず井上先生を訪ねた。
 母が、「どちらが自宅かわからないわね」と苦笑するほどだったから、その心酔ぶりがわかっていただけると思う。

 あるとき、こんな体験をした。いつものように先生の庵を訪れたときのこと。飯でも食べに行こうということで出かけたのはいいが、国道十号線のドライブイン手前で交通事故に遭遇したのである。

私たちの目の前で正面衝突、まもなく救急車でけが人が運ばれていった。

 こんな経験はもちろん初めてだ。私は異様に興奮し、その後は食事ものどを通らなかった。ところが先生は、平然と焼肉をうまそうに食べている。

 以前聞いた話では、戦時中先生はシンガポール沖で乗っていた船が撃沈され、九死に一生を得たということだ。その体験から、どんな物事にも動じない心の強さを身につけるようになったのだろう。

 私はこの経験から、いったん事が起こったときに、冷静で落ち着いていられる人こそが、もっとも価値のある人間だと思うようになった。
本当の指導者というのは、そうでなければならない。
私は井上先生から「不動心」を教わったのである。また、酒の飲み方も教わっている。社会に出て、これにはどれだけ助けられたかしれない。

 そして、生涯その恩義を忘れることができないのが、柳田桃太郎叔父だ。

 私上京してしばらくの間、柳田叔父の家にお世話になった。実は、私はそれまで叔父のことをよく知らなかった。
旧門司市長をやり、五市合併後しばらくして参議院になったことは知っていたのだが、それだけに身近に接するということはなかったのである。その叔父が、私を預かってくれるというのは、大変な好意だった。

 柳田の叔父とともに生活してみて驚いたのは、実によく勉強する政治家であり、非常に博覧強記だったことだ。あらゆる事柄に一家言持ち、青二才の私はただ驚くばかりであった。
 叔父はその頃「石油政策の展望」という本を書いていた。当時の私にとっては難しい内容だったが、石油の問題は基本知識をその著書から学ぶことができた。

 約一年、叔父の家で居候させてもらったが、学生活に慣れ、クラブ活動が忙しく学校に近いところへ下宿した方がよいとなって、私は叔父の家から転居することになった。

 この別れの日の出来事は、今でも忘れることができない。

 別れの挨拶をしに行った私に、叔父は一冊の預金通帳を渡すのだ。けげんな顔で叔父の顔を見ると、このお金は私の母が毎月わずかずつながら、私の生活の面倒を見てくれている叔父にせめてものお礼と送金していたものを、すべて預金しておいたものだと教えてくれた。叔父はそのお金をすべて残し、私が旅立つときのためにと積み立てておいてくれたのである。

 私はこのとき、母の深い愛情、叔父の温かい思いやりに感激し、涙を止めることができなかった。叔父のやさしさに、ただ頭が下がるばかりだったのである。

 大学時代の恩師、小宮隆太郎教授、また、大蔵省時代の上司、先輩方・・・等々、私は教えきれないほどの方たちとの温かい交流を忘れることができない。

 政治家の道を選んだ今、私の人間関係はさらに多方面に広がることになる。
地元の方々とのお付き合いはいっそう増すことになろうし、その一人ひとりが私にとって大事な師でもあるのだ。
これからも、温かい励まし、厳しいアドバイス、そして末永いお付き合いをお願いしたい。今、三九歳(当時)の私にとって、皆様のご支援以外に頼るものは何もないのである。