幸ちゃん物語 第9話 (大蔵省時代編)
武者修行時代
~手荒い歓迎で大蔵省一年生に~
国家試験をパスし、私は念願の大蔵省の面接に出かけた。四五年七月のことである。私の進路がこれで決まるのかと思うと、胸は高鳴った。
面接試験は、官房三課長と各局の総務課長がズラリと並ぶなかで行われた。彼らの鋭い視線が私に集中し、威圧感は想像を超えるものがあった。そこで、質問攻めに遭うわけだ。
一つの質問に答えると、間髪を入れずさらに意地の悪い質問が飛んでくる。どうやら、窮地に陥った際の対応ぶりなどを見ているらしい。それでも、私は次々飛んでくる質問の矢にうまく対応していた。
そのまますんなりいってくれればよかったのだが、最後の税制に関する質問で口論となってしまった。
試験官の主張はただちに間接税は増やすべきだというものだったが、私はその考えには反対だった。
そこで、間接税は逆進的であり、直接税中心主義は崩すべきではないと反論、一歩も譲らなかったのである。
すると、このやりとりを横で聞いていた秘書課の小粥課長補佐(故人、元大蔵省事務次官)が、「君は税の執行当局の苦労を知らないから、そんなことを言うのだ!」とどなり声をあげたのだ。
こうなると売り言葉に買い言葉で、私もムキになった。
「大蔵省の役人から、そんな言葉を聞かされるとは情けない。どんなに難しくても、それを説得しながらやるのが、大蔵官僚の仕事ではないですか」
と応じたのである。今思い返してみても冷や汗がでるほどだ。
結局、面接はそれで終わった。
部屋を出るとき、私は「ああ、これで駄目だな」と思った。
興奮悔恨とが複雑に入り混じった気持ちで、私が隣屋で待っていると、先ほどの小粥補佐が顔を出し、「君、官房長に会わせるから、ちょっと待て」と言う。
私がじっと待っていると、しばらくして高木官房長(元国鉄総裁)が現れ、ギョロリとした目で私をにらみながら、家族のことなどニ、三聞いた。それだけのことだった。
皆目わからぬままに、帰り支度をしていると再び小粥補佐がやってきた。
そして、「君は、もうほかの省は受けなくてよろしい」と耳打ちしてくれたのだ。
そこで初めて、自分がパスしたのだということがわかった。
「やった!」、喜びが身体中に充満してくる。大蔵省の門を出ると、私は抑えることができずに「万歳!」と叫んでしまった。
昭和四六年、私は無事東大を卒業、大蔵省の役人生活がスタートした。
配属先は大臣官房文書課で、私のほかに新人は二人いた。
面接の際やり合った小粥補佐は、われわれ一年生を前に、
「諸君は本日から社会人である。よって、今晩いかなることがあろうとも、明日は這ってでもでてくるように」という挨拶があった。
いったいどういうことなのか、よく飲み込めなかったが、夜になってその意味はわかった。というより、思い知らされたと言った方が当たっている。それは、手荒い歓迎だったのである。
大蔵省では入省当日、二年生が一年生を徹底的に酔いつぶすという伝統がある。なかでも、私が配属された文書課の鍛え方は厳しいことで有名だった。
午後六時を過ぎると、二年生三名がわれわれ新人三名を連れ町に繰り出す。
まず最初に入ったのはビアガーデン、ここでタ大ジョッキーの生ビールを飲まされた。
次は、新橋駅前の飲み屋だ。今度は日本酒だが、徳利におちょこなどというのではなく、コップ酒である。二年生は、「さあ。申告通り飲んでみろ」と容赦がない。
“申告通り”というのは、こういうことである。
大蔵省では、入省試験に先立ち身上申告書というのを書かせるが、そのなかで、
「酒は何合飲めるか」という項目がある。
私は、大蔵省は豪傑がそろっていると聞いていたので、よし気負ってやれとばかり、”七合”と書いておいたのである。これが失敗のものだった。
”申告通り”といわれたからには、飲めないともいえない。
そこで、私も
「そりゃ、飲みます。だけど何か食べさせて欲しい」
と頼んだが、これは軽く一蹴されてしまった。そんな贅沢は、大蔵省では通用しないというわけだ。
聞けば、同僚二人は二合とか三合としか書かなかったという。だから二年生もかげんしている。ところが私は、七合だから、まるで浴びるように飲まされる。そのうちこちらも調子が出てきて、今度は止まらなくなった。十二、三杯は飲んだことを知っているが、それ以後は意識が朦朧として断片的にしか覚えていない。渋谷の狭いバーで、ウイスキーをストレートに飲み干したり、新宿駅のホームでも先輩の肩にぶら下がっていた記憶がわずかにあるだけだ。
翌朝、目を覚ますと、ひどい二日酔いで頭がガンガンしている。寮の自分の部屋に寝ているが、きっと昨夜、先輩が運び込んでくれたのだろう。私は、着のみ着のままで寝ていたのである。よく見ると、上着はすっかり汚れてしまって、とうてい着ていけるものではなかった。起き上がるのもつらいほどの状態だったが、前日の小粥補佐の言葉を思い出し、私はゲーゲー言いながら地下鉄に乗ったのだった。
出省してみると省内では「何局の某はどれくらい飲んだ」といった噂が飛び交っており、そのかなで私は一人前という扱いを受けた。困ったのは、着る物がないことだった。背広は、なけなしの一着しかもっていなかったのだ。
そこでしかたなしに、一週間は上着なしですごした。役所内にいるときは上着なしでもかまわなかったが、国会に質問を取りに出かけるときはさすがに困った。
その場合はやむなく先輩の上着を借りて行った。
配属された官房文書課は、省内の要として決裁文書の最終審査を行うとともに、大臣室、次官室の会議の世話をする重要な部署である。
さらに、国会対策、マスコミ対策も担当している。ここで私は、二年間役人としての基礎教育をみっちり受けた。
文章に関する訓練もその一つ。
なにしろ、文書課を通過した文書には、一つの誤りもあってはならない。
そこで、送り仮名のつけ方、句読点の打ち方など、文章の書き方について厳しい指導を受けた。もう特訓のおかげで三ヶ月もすると新聞、雑誌を読んでいても、すぐに送り仮名のつけ方などの誤りがわかるようになった。
そのほか、電話のかけ方に始まり新聞記者に対する応接の仕方、はては会議の席順などの細かいところまで、先輩に教えてもらった。
こうしたことすべてが、その後の役人生活において、私の大きな財産となったことはもちろんである。
しかし、大蔵省の役人がこんなに多忙だとは思わなかった。毎日午前一時、二時まで仕事をする。その合間を縫って酒を飲んだり麻雀をしたりで、遊びにも精力的である。心身ともにタフでないと大蔵省の役人は勤まるものではないということは、その後をもって知らされた。
さて、私たちは一年生として手荒い歓迎を受けたのだが、同じことは翌年繰り返される。
今度は、私たちが後輩の新入生を可愛がる番だ。このときは、喜々として後輩の酒攻めの歓迎をしたのである。
酒に関する話を続けると、大蔵省には酒豪が多い。そこでこんな悲劇も生まれる。
大蔵省に出向してきたある民間企業の担当者で、酒に自信をもっているのがいたが、毎日某課長と飲み続けているうちに、とうとう身体を壊し廃人みたいになってしまったのだ。麻雀で敗けて帰るとパイがちらついて眠れないように、予算で数字ばかりを追っていると数字がちらついて眠れない。そういう時、酒が助けになるのだろう。酒にまつわる話しが多いということは、それだけ大蔵省の仕事が厳しく、またストレスの多いことを物語っている。