第17話:歴史的瞬間 ~日本が国際会議をリード~

 

幸ちゃん物語 第17話 (大蔵省時代編)

歴史的瞬間

~日本が国際会議をリード~

 さて、そこで冒頭のアジア開発銀行の話に戻るが、日本はこのアジア開発銀行の最大のスポンサーである。
本来アジア開発銀行は、東京にもってくる前提で創設されたのだが、その設置場所を決める直前、フィリピンのマルコス前大統領の強引な巻き返し工作にあって、マニラに設置されたいわくつきのものだ。
これは、日本にとっては大変痛かった。
日本がいつまでたってもほんとうに国際化しないのは、こうした本格的な国際機関が、日本にないことが原因の一つである。
国際機関があれば、政府とその機関との関係、職員の住宅、給与、生活様式等々で、いろいろな問題が生じてこよう。
しかし、真の国際化とは、そういう問題が特別のものというのでなく、日常的なものとして誰もが感じるようになることである。こういうことを知らないまま日本はますます世界の孤児になりかねない。

 さて、ウィーンにおけるアジア開発銀行総会時の最大の案件は、アジア開発基金(通常の融資に比べ、条件が極めて緩い融資を行うための基金)の第二次財源補充(増資)であった。

 アジア開発銀行の要請は、21億5000万ドルであったが、日本、西ドイツをのぞく大方は、それではとても従来のシェアでの拠出には応じられないとして、交渉は難航した。総会に先立つ拠出国会議でも、日本に次いで第二の拠出国であるアメリカが、20億ドルの従来シェア以上はビタ一文だせないとしたため、暗礁に乗り上げてしまった。連日深夜まで話合ったが、双方主張を譲らず打開できない。関係者の間では、次第に焦燥の色が浮かんできた。

 そうしたなかでも、オーストリア政府は、会議が深夜におよぶと急遽、われわれを、かの有名なホイリング(ワインの新酒を飲ませる所)に招いてくれるなど、粋な計らいをしてくれた。第二次大戦時はヒトラーに。そして大戦後は、ソ連軍に陵辱されたオーストリアは、自らの生き延びていく道を、徹底した国際都市化に求めているように思われる。
できるだけ多くの国際機関を誘致しようとし、また、国際会議は何でも歓迎しようとする。そうすることによって、東西両陣営の接点として位置する小国家の存在意義、強靭性を維持しようとしている。したがって、国際会議参加者に対するサービスは徹底している。今回は、オペラ座を一晩借り切って、参加者全員を招待してくれた。また夕食会は、マリヤ・テレサが少女時代をすごしたといわれるシェーンブルン宮殿で、好きな部屋の好きな名画を鑑賞しながら食事を楽しむ、といった趣向でわれわれの度肝を抜いた。ただし、ホテルの値段の高いのだけにはまいった。

 ところで、拠出国会議の最終日の朝、日本側は松川財務官(故人、元日興リサーチセンター理事長)を中心に、最終的態度を協議した。西ドイツが出している21億5000万ドルを目標に、各国が出せるだけのものを集める、という案を採るか、日本案の20億ドルを従来シェアで引き受け、残りはシェア計算に入れない任意拠出にする、ということに固執するかで意見が分かれた。日本としては、どちらの案も全体の三分の一拠出ということで同じなのだが、アメリカなどのシェアダウンを公式に認めるかどうかということにポイントがあったのである。

 私は、あくまで日本案に固執すべしと主張したが、松川財務官から、
「万一、会議が決裂したらどうするんだ。総会が台無しになるぞ」
と一喝された。結局、午前中は頑張るが午後にもつれこむと妥協やむなしということになり、垣水審議官とともに悲壮な覚悟で最終会議に挑んだ。

 会議では、日本側はそれまでと打って変わって沈黙作戦をとった。イギリス外交官出身でサーの称号を持つジョン・チャドウィック議長は、なぜか午後一時を回っても休憩を宣しようとしない。各国代表は、誰も空腹と苛立ちのためか落ち着かず、日本側の動静を窺っている。そこで、満を持したように、私は発言を求めた。このスピーチは、自分ながら一世一代のできだった。

 その内容は、アメリカのシェアダウンを認めることは、今後の援助全般にわたって、アメリカの消極姿勢を助長しかねず弊害が大きい。また、アメリカのシェアダウンは日本のシェアアップを意味するが、アジア開発銀行で、日本一国だけの影響力が異常に膨張することは、決して好ましいことではない、と訴えた。
垣水審議官と打ち合わせたとおりの内容だったが、私の発言が終わったとたん、西ドイツのモルトレヒトが日本案支持に態度を変更すると電撃的に宣言。間髪いれずチャドウィック議長は、
「体勢は、日本案通りと考える」
と言って締めくくってしまった。老練なイギリス外交官の面目躍如たるところで、有無を言わせぬ早業であった。
このあたりが、国際会議の難しいところで、一見ぐずぐずしているように思える会議が突然急展開する。その一瞬を見逃して留保し忘れたりすると、とんでもない結論を受け入れなくてはならなくなるのである。
 議長が
「これにて散会」
と宣するや、アメリカのバーグステンは飛んできて、
「日本のリーダーシップは、エクセレントだった」
と、日本側に握手を求めた。私達もこの一週間、毎夜胃がキリキリ痛むような思いに悩まされたことなどすっかり忘れて、会議が成功したことを心から喜んだ。日本が、国際会議をリードするようになった走りともいえる出来事だ。

 さて、美女の話に戻ろう。運よく森永日銀総裁(故人)主催の夕食会で、その美女と席が隣あわせになった。チャンスとばかりオペラに誘ってみたところ、喜んで応じてくれたのだ。問題は、持っていた二枚のキップの席が離れていたことである。これでは喜びも半減してしまう。そこで隣り合わせのキップを探し回ったのだが、思うように手に入らなかった。とくに、えらい人ほど
「女性同伴者をみつけてくるなどけしからん」
と怒られたのにはまいってしまった。それでも何とか間に合わせ、美女とともにオペラを堪能した。ウィーンのよい思い出となった。

 件の写真は、カメラマンとしては定評がある垣水審議官の作品なのにボヤけている。
そこで、
「女性のあまりの美しさに目が眩んだのでしょう」
と冷やかしたら、
「いや、家庭不和を起こさないよう配慮したのだよ」
と切り返されてしまった。
 この美女については、ウィーンのアジア開発銀行総会に引き続いて開かれたメキシコでのIMF暫定委員会で後日談がある。メキシコでのパーティーで森永総裁が、
「ウィーンでは、大変美しい方がいましたね」
と話しかけてこられたので、
「実は、オペラに同伴したんですよ」
と申し上げたら、ビックリした表情で
「いつの間に、そんな話になったのですか」
と問い詰めてこられた。これにはまいったが、さすが、リーダーシップを取られる方は細かいところまで鋭い観察眼をおもちだなと舌を巻いた。