幸ちゃん物語 第18話 (大蔵省時代編)
歴史的瞬間
~東京サミット~
昭和五三年七月、同じ国際金融局の国際機構課に配置換えとなり、翌年の第一回東京サミットの大蔵省における事務担当となった。
サミットの正式な準備会合は、外務省を中心に関係省庁代表が集まって行われるが、通貨問題については各国の財務担当者だけで、別途の会合がもたれた。この会合がいわゆるG5(五ヶ国蔵相会議)である。
正規のG5は大臣レベルの会合であるが、それを準備するためにG5D(蔵相代理会議)が頻繁に開かれる。
昭和六〇年九月のプラザ合意以後、このG5やG5Dの会合開催の事実は、かなりオープンになってきたが、当時は一切極秘であった。
私は佐上財務官(元和光経済研究所最高顧問)の鞄持ちとして、これらの会議のため一年間世界中を飛び回った。その一例を示せば次のようである。
だいたい、日曜日か月曜日に日本を発つ、新聞記者をまくために、仮病を使ったりゴルフ姿で空港まで来て着替えるといったこともやる。飛行機では、乗客名簿の名前を変えてもらったりもした。
現地の空港に着くと大蔵省からの出向者がひそかに迎えに来ており、できるだけ目立たないように入国する。
そのため日本人がたくさん泊まっているような立派なホテルには、絶対泊まらない。
アメリカでは、郊外のモーテルによく泊まったものだ。
というのも日本人にみつかると、大蔵省の財務官が動いているからには、何か重大な出来事があるのではないかとの憶測を生み、為替市場に悪影響をおよぼしかねないからである。
翌朝になると、決められた場所―アメリカでは、財務次官のアンソニー・ソロモンの自宅が多かった―に、どこからともなく各国の財務次官クラスが集まってくる。
この会議はすべて英語で行われ、随伴者も一切認められない。従って、われわれ鞄持ちは、隣室で待機していなければならない。
ときどき、佐上財務官が出てこられて、「山本君、あの数字は、どうなっていたっけ」と聞かれる。
そのためこちらは、いついかなる資料でも出せるぞと、気を張っていなければならない。気を休める暇もなかった。
食事は、随伴者も呼ばれたので、私は体力が落ちないようにしっかり食べた。
なにしろ、この仕事のハードさは想像を絶する。夕食がすみモーテルに戻ると、夜の10時か11時になっている。
それから財務官の部屋で、その日の会議の話を聞く。
佐上財務官は、ステテコ姿でベッドのまわりをぐるぐる回りながら、その日の出来事をひとつひとつ思い出し語ってくれる。
会議では財務官一人ということもあり、すべてをメモできず、マッチ棒を重要な話が出たときに折っておき、それをもとに思い出すという工夫もしておられた。
私は、早口で喋る財務官の口を追いながら、口述筆記をしていく。この作業に、だいたい一時間くらいはかかった。
それから自分の部屋に戻って、今度はその筆記のメモを見ながら、報告レポートを作成する。
それがあらかたまとまると、次に国際電話で東京の本省に、その日の会議の概要を報告しなければならない。これが結構時間をくうもので、小一時間はどうしても要してしまう。これでやっと一段落して、シャワーを浴びベッドに入るのが、午前四時とか四時半といった時間になっていた。
それでも、翌朝七時半には、財務官が朝食を取られる。そこでそれに間に合うように支度し、昨夜のレポートのチェックを朝食中にしてもらう。
そして、九時ごろには、翌日の会議に出かける。こうしたスケジュールが、二、三,日続くのだ。
帰りの飛行機でもゆっくりできない。最終報告書を作成しなければならないためだ。
途中、給油で立ち寄るアンカレッジに着く頃に何とか仕上げ、ファーストクラスの財務官に最終チェックをしてもらう。
まさに、体力と集中力がなければできない。
それだけに、最終報告書をまとめあげた後、口にするウイスキーの味は格別だ。
さすがのスチュワーデスも、ほとんどの人が寝ているなかで、必死に筆を走らせていた私に同情するのか、おかわりをすぐにつくってくれる。
そして、つかの間の休息後、ファーストクラスの財務官が、エコノミーの私の席までチェックずみの報告書を届けてくれる。
成田に到着すると、財務官室の人が出迎えていて、報告書を渡すのである。
そして、翌日出省するとコピーが用意されており、それをもってすぐに大臣室へ報告に上がるのが常だった。
こうしたハードな海外出張が、平均月に一度あった。
よくぞ体がもったものと思うが、緊張していたので倒れる暇もなかった。
このときの経験で、少々の睡眠不足でもしっかり食事をしておけば大丈夫と体力に自信もついた。
本当に体の調子が悪くなると、食欲もなくなるし、酒を飲む気もしなくなるものである。