第19話:歴史的瞬間 ~哲学と信念が政治家の資質~

 

幸ちゃん物語 第19話 (大蔵省時代編)

歴史的瞬間

~哲学と信念が政治家の資質~

 さて、第一回の東京サミットは、昭和五四年六月二八、二九日の両日、赤坂の迎賓館で開かれた。
このときの警備は非常に厳しく、夜など霞ヶ関から迎賓館にいたる一帯は人通りが途絶えてしまった。私は、特別のバッジをもっており、どこでもフリーパスで、迎賓館につめてサミットの一部終始をフォローした。

 このときの最大の懸案は、石油問題だった。ちょうど、先進国によるサミット開催に合わせるかのように、OPECは、その年五月に原油価格をバーレル当たり二ドルから一ニドルへと値上げすることを決定し、いわゆる第二次オイル・ショックが起こったのだ。

このため、先進国間で急務の課題のとされたのかが、
石油消費量の節約、
そして原油輸入量の削減であった。
これをもって、OPECのプレッシャーに対決しようというのである。

 しかし、このことは、エネルギー需要の九割を頼っている日本にとっては、極めて厳しいものであった。
ヘタをすれば、日本経済は、失速し沈没さえしかねない。
アメリカは、いざとなれば無尽蔵の石油資源を有しているが、その開発には時間がかかり、またコストも高くつくので当座は間に合わない。
フランスや西ドイツは、原子力発電の普及度が高く、石油消費節約が比較的やりやすい態勢にあった。
その結果、原油輸入量削減については、日本がいちばん弱腰なのに対し、フランスがもっとも強硬派、アメリカは中間だが、いくぶん日本よりという図式が成り立っていた。

 従来、サミットの宣言文は、それまでの準備会合で、だいたいの文案が出来上がっている。実際、東京サミットでも、マクロ経済、通貨、援助などの項目の文案は、ほぼ仕上がっていたが、この石油問題については、本番まで全く白紙であった。
こういうことは、稀有なことである。

 日本側は、この東京サミットで原油輸入の削減の方向について何らかの合意をせざるを得ないとしても、具体的な数字のコミットだけは何とか避けたいと必死の根回しを行った。
会議の前日も、大平総理自らカーター大統領に会い、具体的数字のコミットはしないことで、大方の了解を取り付けた。

しかし、これが一晩で覆されたのである。

 フランスのジスカールデスタン大統領はもともとサミットの提唱者であり、サミットでは役人のおぜん立てなど無視して首脳同士が率直に話し合い、具体的な決定を行うべきだとの信念をもっている。このときの動きも、際立っていた。まず、西ドイツのシュミット首相と連合を組み、原油輸入原料の具体的なコミットが必要との立場を鮮明にした。
次いで、会議当日の朝、カーター大統領と急遽会い、その線で協力に説得、アメリカの態度を変えさせてしまったのだ。さすがに、ジスカールデスタン大統領は優れた政治家である。
自ら世界を動かすのだという気迫に燃えていた。

 そうではあるが、日本としては非常に困った事態だ。
ホスト国として、何とかサミットを成功させなければならないのだが、輸入削減の数字いかんによっては、日本経済に致命的なダメージを与えかねない。
 第一日目から仏独連合は強硬で、各国毎に原油輸入の上限を決めることとし、日本には590万バーレル/日との数字を突きつけてきた。これでは大幅な削減となる。日本側として、到底飲めるものではなかった。

 事態は緊迫し、窮地に追い込まれた日本政府首脳の間には、苦悩の色が濃かった。
当時の官房長官は、郷里の大先輩田中六助先生であったが、各省幹部を集めた協議の席では沈痛な面持ちで、
「このままでは、大平内閣は、吹っ飛ぶかもしれない」
とまで、つぶやいておられた。
宏池会の重鎮として、領袖の大平首相を苦境から救う方法を必死で模索しておられた。
 とにかく、このまま押し切られてはならない。
各省総出で、各国の説得に当たった。
また、田中官房長官の指示で、経済企画庁において、マクロ経済モデルを使ったシュミレーションを行ない、ギリギリどこまでだったら日本経済はもつのか詰めることとした。
この作業を指揮されたのは宮崎勇調整局長(元経済企画庁長官、元大和総研理事長)であったが、実に冷静で、650万バーレル/日程度以上であれば何とかいける、との結論が導かれた。
 これを聞いて大平総理、田中官房長官はじめ政府首脳は、一様にホッとされた。
通常は、役立たずと酷評されるエコノメトリック・モデルが、現実の政策決定に大きな影響を与えた珍しい例である。

 しかし、会議は最終日に入ってもなお膠着状態が続いた。
大平総理は、ホストとしての立場もあり結論を急がず、じっと耐えた。
実はこの忍耐が、最終的には救いになった。
あまりの緊迫状態に耐えられなかったのか、アメリカが折衷案を出してきた。日本は、630万から690万バーレル/日の間で、と幅をもたせてくれたのである。

 日本側には異論はない。
できるだけ下限に近づくよう努力すると日本側が付け加えると、フランスのジスカールデスタン大統領は折れた。
大平総理の忍耐強い粘り作戦の勝利である。
間にあったカーター大統領が折衷案を出したのは、数字のコミットはしないとの約束を、反故にしたことの負い目があったからではないかと思う。

 こうして、第一回東京サミットは、原油輸入量の具体的なコミットという大きな成果を上げて終わることになるが、その状況を垣間見て、政治家の資質というものを深く考えさせられた。
哲学と信念をもつ政治家は強い。
反対にそうでない政治家は、状況に翻弄されてしまう。誠に厳しいものだと痛感した。
私も政治家となったら、哲学と信念はもち続けたい。
大蔵省でその資質は十分培われたはずだ。