第41話:ウォーターフロント開発 ~ボストンの再開発を応用~

 

幸ちゃん物語 第41話 (北九州地域再活性化私案編)

ウォーターフロント開発

~ボストンの再開発を応用~

昭和56年、アメリカのハーバード大学の客員研究員としてボストンで生活したとき、ウォーターフロント開発を目の当たりにし、非常に感心した。

 そのときまず頭に浮かんだのは、私の生まれ故郷、門司のイメージであった。ボストンも門司と同じく、かつては海運の中心としておおいに栄えた町であるが、輸送手段の主力が鉄道や空・陸送へと変わるにつれ、次第にその勢いを失っていった。海運用の港湾施設は放置され、荒廃が進んだ。しかし、ボストンは、いち早くウォーターフロント開発というものに乗り出し、歴史的港湾都市をしてのよさを残しつつ斬新なアイデアで、新しい街づくりを進めてきた。かつては、人っ子1人いなかった寂れた倉庫や市場跡が、洒落たレストランやショッピング街に生まれ変わり、大勢の人でにぎわうようになったのである。私は、これは門司の再開発のよいモデルになると思った。また、門司だけでなく海に面した都市ならどこでも、応用可能な再開発の手法である。

 ボストンのウォーターフロント開発は、1955年から始まる。この年、マサチューセッツ州法によってボストン再開発局(BRA)が設立された。BRAは、市の外部部局であり、ボストン市全体の再開発計画の立案と実施に責任を負っておる。

 1962年にボストン商工会議所は、BRAにウォーターフロントの再開発計画を提出した。「100エーカー計画」と呼ばれるこの計画は、都心部の100エーカー(約40・5ヘクタール)を対象として、ウォーターフロントについては水族館、オフィス、住宅、公園といった、施設をつくり複合的な利用を図る。それとともに、隣接する官庁、オフィス街を再編成し、歴史的な施設は保存することを提案した。細分化された土地、密集した建物、都心部の空洞化による空室率の増加といった、再開発にとって極めて悪条件の揃ったなかでこの計画は実行に移された。

 この計画の中核プロジェクトとなったのが、ファニエル・ホール・マーケットプレイスの再開発であった。ファニエル・ホールは、ジェームス・オーティスが独立戦争の発端をつくった地として有名だが、ここに隣接して市場がある。かつてはにぎわったこの場所もプロジェクト開始当時は、すっかり落ちぶれていた。再開発計画は、1964年に歴史家を交えたBRAグループによって策定され、国立公園事業局が200万ドルの補助金を給付することが決定された。最終的にこの計画を担当したのが、有名なラウス社である。そして、1976年に新たなレストラン、ショッピング街としてオープンした。以来、ボストンの新名所としてにぎわっている(年間1500万人)。

 このプロジェクトのビル改修費用の大半は、連邦政府からの補助金によるものであり、この補助金は歴史的施設の保全ということで、政府の住宅都市開発局によって融資された。しかし、民間の投資額はこの公共投資の3・5倍にもおよんでいる。デベロッパーは市から99年の期間で借地をし、商業収入の一定割合を市に収めるが、初期投資の負担を軽減するために、当初数年間は税の減免措置が採られた。なお、再開発区域内の土地の大部分は州の所有であるが、その権利はBRAに委譲されている。また、民間の投資を促進するため、州所有の土地の一部は売却されている。

 こうして始まったボストンのウォーターフロント開発は、次々と新しいプロジェクトに取り組んでいき現在も継続中である。そして、このウォーターフロント開発という地域開発手法は、ニューヨーク、ボルチモア、シカゴ、サンフランシスコと水面を有するアメリカ主要都市に広がっていった。